定義 

「日本軍性奴隷制」とは、1930年代から1945年日本の敗戦に至るまで、日本軍が制度的に「軍慰安所」を設置し、被植民地や占領地から女性を集めて性奴隷にさせた犯罪を指します。


背景

1932年上海事変の際、現地での日本軍による強かんが急増したことから、占領地において反日感情が高まりました。また、日本軍の中で性病感染が蔓延した 、被植民地・占領地出身の女性たちを女性自身の意思に反して動員しました。韓国政府に登録された被害者に関する報告書によると、連行された当時の年齢は11歳から27歳に至ります。また、多くの女性たちは拉致や求人詐欺によって連行されました。


「軍慰安所」

「軍慰安所」の設立・運営形態および「慰安婦」の募集は、時期・場所によって様々な形で行われました。その中、コンドームの着用・監視・規制は全て日本軍によって行われました。各「慰安所」では、階級別の利用時間・料金、性病検査やその他の衛生管理が明記されています。元日本兵士が証言によると、ピーク時には20~30人の兵士がドアの外に並んで順番を待っていました。


日本兵士たちの安全のため、「慰安婦」は定期的に性病検査を受けなければならなく、月経・妊娠、病気のときでさえ、残酷な性暴力を受け続けました。彼女たちは自らの意思で「慰安所」から離れることが禁じられ、基本的な生活や移動まで制限されました。記録によると「慰安婦」を「天皇からの賜物」や「公共便所」と指しています。

日本が敗戦した1945年、「慰安婦」たちは連行された地域に残され、爆撃によ る死亡、日本兵士による虐殺が相次ぎました。サバイバーたちは自力で地元に帰るため苦心するか、帰ることを諦めます。「慰安所」で受けた暴力・拷問・性暴力で負傷やトラウマのせいで、彼女たちは出産や家族づくりができなくなりました。また、心理的トラウマ、社会のまなざしや偏見によって長い間沈黙させられました。


沈黙を破く

1988年行われた国際セミナー「女性と観光」で、尹貞玉(ユン・ジョンオク)教授が日本軍性奴隷制について発表しました。その後、韓国の様々な女性団体が集まり、1990年11月16日「韓国挺身隊問題対策協議会」を立ち上げます。1991年8月14日、金学順(キム・ハクスン)氏が初の公開記者会見を開き、自らがサバイバーであること を公に証言しました。彼女の勇気に満ちた証言は他のサバイバー他ちを勇気づけ、彼 女たちも沈黙を破き声を上げはじめました。

金学順氏(キム・ハクスン)の証言は、韓国や国際社会における日本軍性奴隷制問題解決運動の中で重要なターニング・ポイントとして位置づけられます。サバイバーたちは、隣人や家族との絆が途絶えてしまい、自分自身の被害事実すら話せませんでした。しかし、他の女性や市民たちと関係を築き上げながら日本政府の犯罪を明らかにしはじめ、サバイバーたちは自身の尊厳や人権の回復、これ以上犠牲者のない世界の実現のために取り組む女性の人権・平和運動家と変身します。